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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第2節 夕闇の十字路 [11]




「隠そうだなんて」
「隠してますよっ!」
 両肩に置かれた智論の手を振り払う。
「私には知る必要はないだなんて言って、本当は私を霞流さんのそばから追い払おうとしてるんでしょうっ。そうですよね、智論さんは霞流さんの許婚ですもんね。私みたいなの、邪魔なだけですよねっ!」
 自分で言っていて、でも意味がわからない。
 霞流さんのそばから追い払われる? 追い払われる前に、霞流さんから突き放されたクセに。
 嘲笑うもう一人の自分の声に、美鶴は両手で耳を覆った。
 そうだよ。どうせ自分は霞流さんにフラれたんだ。バカにされたんだ。

「僕の事が、好きなんだろう?」

 霞流が嗤う。

「あなたには、知る必要はないわ」

 智論が優しく嗤う。
 智論さんも、どうせ私の事を嗤っているんだ。
 美鶴はガバリと布団を被った。
「美鶴ちゃん」
「ほっといてくださいっ」
 本当に、放っておいて欲しかった。
 もう嫌だ。もう何も考えたくない。何もしたくない。どうせ私はこういう人間なんだ。いつも嗤われて、バカにされて、爪弾きにされて生きていくんだ。
 生きていく? こうやって生きていくのか? だったら、生きるなんて嫌だ。
 生きていくなんて面倒だ。
 ぼんやりと、布団の中で薄く瞳を開ける。いつの間にかギュッと瞑っていた。
 生きているのも嫌だ。だが、死にたいなどとも思わない。
 死ぬのも面倒だ。
 何もしたくない。
 絶望に陥ると人は死を考えたりもするものだが、今の美鶴にはそれすらも嫌だった。
 本当に絶望すると、人は死にたいとすら思えないんだな。
 とにかく美鶴は、何もかもが嫌だった。何もしたくなかった。
 何もしたくない。生きたくもない。死にたくもない。
 お母さんは強姦されて私が産まれて、でも家は貧乏で私は出来が悪くてテニスも下手で、人に恋しても相手にされなくて、フラれて捻くれて、また恋をしてフラれて―――
 疲れた。
 美鶴は瞳を閉じた。
 疲れた。何もしたくない。何も考えたくない。
「美鶴ちゃん」
 躊躇(ためら)うようにかけられた智論の言葉も無視をした。
 何もしたくない。何もかもが、嫌になる。
 布団の中に、空虚や億劫や怠惰といった言葉が広がり始める。
 このまま、ずっとこのまま何もせずに終わってしまえばいいのに。
 何が終わるのか?
 そんな問いには答えることもできず、美鶴はぼんやりと、眠るでもなくぼんやりと思考を停止させていった。





 世の中とはつまらない。何もかもが虚しく、退屈で、無意味だ。期待など、何も意味も無い。
 霞流慎二がほっそりと口元を緩める。そのタイミングを見計らっていたかのように、部屋の扉が開いた。振り返る先で、智論が唇を引き締めている。
 とても機嫌良さそうには見えない。
 そうわかっていて、慎二はわざと間延びした声を出す。
「お前は、ノックもせずに入ってくるほどの礼儀知らずだったのか」
「あなたに言われたくないわ」
 慎二の言葉など一蹴(いっしゅう)し、智論は、それこそ礼儀もなしにズカズカと部屋の中に入ってきた。そうしてソファーに背を預ける慎二のすぐ横でピタリと足を止める。
「美鶴ちゃんが目を覚ましたわ」
「ほう」
「でも、あなたは会いに行かないでね」
 智論の言葉に、慎二は無言で瞳を細める。
「あなたが行けば、彼女はもっと傷つくわ。ずいぶんと混乱もしているし、あなたの姿を見れば何をしでかすかわからない」
「と言う事は、まだ俺に未練でもあるというワケか」
 智論を振り仰ぐ口元が歪む。
「ずいぶんとしつこい女だったんだな」
「いい加減にしなさいよねっ」
 智論としてはかなり厳しく一喝したつもりだが、慎二にはまるで効かなかったようだ。喉の奥でククッと引き()ったような音を出す。
「いい加減にして欲しいのはこちらの方だ」
 大仰な仕草で背凭れに身を預ける。
「女の色目にはうんざりだ」
「彼女はそんなつもりじゃないわ。なかったはずよ」
「つもりじゃなくても同じ事だ」
 そうだ。
 慎二は断言する。
 つもりなどあろうがなかろうが、俺に惚れて好きだなどという言葉を口にし、返事が欲しいワケではないなどといったくだらない手法で媚びた事には変わりない。
「大迫美鶴」
 呟く口で歯をギリッと噛みしめる。
 お前こそは、お前こそは違うと思っていたのにっ!
 ダンッと拳で肘掛を叩く。音に智論は目を見開いた。だが、それ以上に反応は示さない。慎二が感情を荒げる事は今までにもあった。頻繁ではないが、無い事でもない。ただ、普段の慎二しか知らない、例えば美鶴のような人間が見れば驚くかもしれない。
 肘掛を叩きつけたまま拳を震わせる慎二を、智論は少し冷めた感情で、少し歯痒い思いで見下ろす。
「慎二、いい加減に()ねるのは終わりにしてよ」
「拗ねる?」
 智論の言葉に反応する慎二の声には、敵意すら込められているのではないかと思えるほどの棘が剥き出しになっている。
「拗ねる? 俺が?」
 今度は吐き出すように嗤う。
「ははっ 拗ねるだと? 拗ねるって言うのは小学生や中学生みたいなガキんちょが親に叱られてする事さ」
「そうよ」
 智論は胸で腕を組む。
「今のあなたはまるで小学生だわ」
「じゃあ、年下のお前は幼稚園児か?」







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